金環日食
こんにちは、吉田鈴香です。
21日の朝、金環日食がありました。
あるのは知っていましたが、寝ておりました。じかに太陽を見るなと注意が回っていて、専用グラスをどこで買えるのかもわからない。あとでインターネットで見ればそれでいい、と思っていましたから。
予想通り、インターネットで見ることはできました。神秘的な感じでした。平安時代ぶりに見ることができた地域もあるとか。歴史の一こまだったのですね。
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こんにちは、吉田鈴香です。
21日の朝、金環日食がありました。
あるのは知っていましたが、寝ておりました。じかに太陽を見るなと注意が回っていて、専用グラスをどこで買えるのかもわからない。あとでインターネットで見ればそれでいい、と思っていましたから。
予想通り、インターネットで見ることはできました。神秘的な感じでした。平安時代ぶりに見ることができた地域もあるとか。歴史の一こまだったのですね。
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こんにちは、吉田鈴香です。
長らくブログの間が開いてしまいました。この間、頭を悩ませていたことは、学生の学びへの動機付けについてでした。
私立大学は体育推薦で大学に入学してきた学生が多いという共通の特徴を持っています。私が教職を務める拓殖大学もそのひとつです。彼らはスポーツをしにきたのであり、学ぶつもりは毛頭ありません。
大学で学位をとるのではなく、スポーツをするための身分を得るために入学してきたわけですから、講義中においても「心ここにあらず」です。それらの騒動を抑えるために、不本意ながら、大声を張り上げざるをえないこともあります。授業は中断し、学生はそんな私を喝采し、まるでショーを見るかのようでもあります
学生とはいえ、18歳以上の成人に近い男性で、興味関心はスポーツ以外はただ1つです。その興味関心の中に私すらも含めて語っていることが耳に入ってきます。同種の話は、ほかの大学で教鞭をとる方からもよく打ち明けられます。
私は大震災と原発の混乱のさなかでも社会的騒乱が起きなかったのは、日ごろからスポーツを通じたorganaizeの精神があること、社会のつながり(抑圧を含む)があることが幸いしたから、と思っています。ですから、スポーツは日本の社会の基本と思っています。さらにいえば、男女を問わず知識階級ほど強まる、意地悪で冷淡な人間性を薄める役割を担ってくれているとすら思っています。けれども、人間形成の途中では生身の人間の部分をうまく受容と抑制の両方でハンドリングせねばなりません。それを学びの動機付けと同時にできないだろうか、と考えています。
たぶん答はないだろうと思います。大学2年生になると、かなり落ち着いて話ができるようになります。1年生の1年間が山場です。しばらくは、学生をほうっておくことにしました。
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メモ:グローバルに展開されているジハードは、すでにアフリカを主戦場とし始めているようだ。
英国政府が懸念を募らせている。なぜなら、英国内にいる北アフリカの子孫(といっても、その親の代から英国に住み始めた)が、ジハードの担い手になり始めているから。アルカイーダ自体は弱体化しているものの、その分子がアフリカで勢力を拡大している。
英国王室研究所が発行する第2弾のレポート
「UK Terrorism Analysis」No.2: Global Jihad Sustained Through Africa
http://rusi.org/analysis/commentary/ref:C4F7BDEE390DBB/
第1弾のレポートでは英国内のジハード予備軍への対処はロンドン五輪後になるといっていた。
地域専門家を情報源としていてはこのようなレポートはかけない。人口移動、武器移転、グローバル金融の専門家が大量にいる英国ならではのレポート。「地域を押さえる」のではなく「人、モノ、金を押さえる」発想が必要だ。
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こんにちは、吉田鈴香です。
28日はとてもよい天気でした。
古本をリュックに背負って神保町の古本街に行ってきました。お金に換えようと思ったのです。
1300円になりました。もう少し高いかと思いましたが、ダメでした。新しい本ならいいかと思ったのですが、そういうわけでもありませんでした。
店員さんの目の動きを見ていると、真っ先に目をつけたのが、『カラマーゾフの兄弟』全巻(亀山郁夫訳)と、広瀬隆さんが1988年に出版したドイツの原発についての本でした。次に、ウイグル族関連の本(中国で発禁になった本)です。
安全保障とか、政治家が書いた本などは山のように積み上げて、店主はじろっと一瞥、「まあ、いいとこ300円ですな」といいました。バナナより安いなあ、と思いながら、「買ってくださるならお願いします」といいました。
神保町から水道橋へ抜けて、帰ってきました。
本は買うときは高いのに、売るとなると、バナナの叩き売りよりショボイ商いになる。それでも、私が神田まで足を運んだのは、内戦中のユーゴで聞いた一言があったからです。
あるインテリだった方が言っていました。
「冬、暖を取るために街路樹を切って薪にしていたが、それも切りに行くには(スナイパーに狙われて)危なくなって、薪がとうとうなくなった。本を一枚一枚破って火にくべた。そのとき、非常に罪悪感があった。自分を否定している気持ちもした。涙が出た」
文字によって自分を養ってきた人間は、皆本を焼いたりゴミにすることには抵抗があります。本の文字は、誰かの頭の中に入ったとしても、減ってなくなることはありません。なんどでもどこでも、読み手の頭に入ってくれます。一度身についた知識が自分から抜けていくことがないように、本もまた、繰り返し読まれても価値が抜けていくことはありません。そんな、刻まれた価値を燃やすとは、悲しいことです。
いくらかのお金を出して買った本が、ほかの誰かの手に渡ってよみがえるなら、買ったときの自分の気持ちが多少安堵するように思いました。そうあることを願っています。
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こんにちは、吉田鈴香です。
昨日、映画「オレンジと太陽」を観てきました。
久しぶりの映画館でした。
内容は、19世紀から1970年まで、英国政府がひそかに行ってきた児童移民の実態を描く実話に基づく映画です。
http://info.movies.yahoo.co.jp/detail/tydt/id341717/
身寄りのない3歳から13歳までの子どもたちを教会やチャリティー団体の協力で豪州に送り、そこで児童労働をさせる。15歳になって施設(教会など)をでるときには、それまでの生活費を請求し、児童らは以後、働いてそれを返済している。8歳で豪州に着いて以来、40年間床磨きをし続けている女性が、手を休めずに社会福祉士に身の上を語りながら母親探しを求める姿。うつ病の治療を受ける男性が、教会で受けた仕打ちに涙する姿。悲劇の形は千差万別だけれども、悲しみと反発心、自分のアイデンティティを求める心のありようは同じでありました。対象になった児童は、私と同じ世代も含まれています。
映画の中で、こんな台詞がありました。「児童移民は長く続いてきたが、波があり、1950,60年代で大きな波があった」
はは~ン、と思いました。
第二次大戦が終わって英国もかなり疲弊し、その立ち直りに忙しかった時代です。福祉に国家予算を振り向けられなかったのでしょう。軍事予算、雇用創出のための予算、社会主義者を押さえ込むための予算など、優先すべき事柄があり、福祉、それも、生まれて間もない幼児のことをかまっていられなくなった。他方、豪州は、労働力不足だった。同じオリジンの児童を豪州に送っても、発見されにくいことも容易に想像できたので、英国と豪州の教会とチャリティー団体が協力を申し出た。ということろではないかと、想像します。
当時の国家予算を調べてみてないので、はっきりといえませんが、上記が私の想像(仮説)です。
私の知り合いでセキュリティの仕事につく英国人たちは少なからず、義務教育終了後軍隊に入った人々です。彼らの父親は大戦で戦地に赴きました。復員後も苦しい生活だったそうです。軍隊に入ったのは、苦しさから逃れるためであったことと、軍隊が10代の若者を入隊させて教育の機会を与えていたことだそうです。
つまり、軍は、対外的な本来の意味での軍の役割と、雇用創出の役割を果たしていた。今もそうかもしれません。そうなると、児童福祉に国家予算など割り当てることは難しいです。
英国や米国などでチャリティーが発達したのは、政府が予算を割り当てられず、その分を民間が賄わなくてはいけない事態が発生したからです。そこで、政府は、本来自分たち政府が行わねばならないことを民間が肩代わりしているから、ということで、寄付金への税控除や、団体への課税を緩めたわけです。日本の同類の団体が行政のお金を財源にして活動しているのと、ここが違います。
もう1つ感想を。
貧しさは子どもを卑屈にします。特に、我慢と辛抱を先に覚えた人間は、人に絶対本心を言うことなく人付き合いも表面的になり、能力を発揮できず、小さくしぼんだつぼみのまま萎れていきます。永遠に開花はしません。人に本心を語らない人間にする、という点が、胸を締め付けます。
好きな言葉ではありませんが、貧困は人を蝕みます。
子育て環境を整えないまま子どもを産めと要求する男性政治家は眼が見えないのです。現況で高い教育を受けた有能な女性はあまり子どもを産みません。損得を考えられるひとは、いかにそれが割に合わないかを知っているからです。どちらかというと、貧困ないし、それに準じた家庭の子女が子どもを産むことはあります。その子どもたちがきちんと教育を受けられるよう環境を整えることが、日本の未来への投資と思います。さもなくば、移民を受け入れることです。ただ、移民を受け入れたところで、今のままの「子育ては女の専権事項」という発想であれば、同じ結果になるだけですが。
ともあれ、人口動態を把握することは、国家の内情を把握するに等しいのだと、あらためて思いました。
こんにちは、吉田鈴香です。
産業革命は後の時代になって、人々が、ああ、あれは産業革命ということだったのだ、と気づき、命名したものです。
いま、日本中、いえ、世界中で起きている経済の嵐は、産業革命中のことだと、私は解釈しています。10年前まであった職業が今はもうない。5年前まで泡ぶくのように思われていた産業がいまや竜のような勢い。ということが、おきています。
ただ、時代の変化はそれと気づかせない形で私たちの身辺で発生しているものです。たとえば、私の友人知人は、公務員以外、全員転職を経験しています。その多くは、2008年のリーマンショックを契機として、職業を変えざるを得なくなって転職しました。コンサルタントが塾の先生になったり、ホテルマンが介護士になったりと、形のないものを追いかけていた仕事を、形あるものを扱う仕事に転換しています。外注によって形のないものにお金を払うことがほとんどなくなってしまったからです。転職後は、勿論、労働環境の厳しい、報酬も少ないお仕事です。公務員だけは、学校教員、農協をふくめ、ずうっと同じ仕事についています。
これからは、自分で何役もこなしていける、マルチ人間が価値ある人間となって生きると思います。「これが専門」と胡坐をかいてはいられない、厳しい産業革命下、1人一役ですんでいた時代は終わり、マルチタレントになれるよう、常に、問題意識をもち、それに答える能力構築を重ねたものだけが生き残ります。のほほん人間は、不要です。人口減少でちょうどいいのかも知れません。
こうした時代の変化に、政治は対応できていません。民間の参入に障壁を設けて官が規制によって自分たちの雇用を生む、官製ビジネスが横行し、その流れは止まる様子がありません。官の「文句言い屋」が際限なくのさばって「日本はガバナンスがよい国だ」といっているように思えてなりません。
新しく導入が決まったストリートダンスの検定試験制度だなんて、役人が考えそうなことです。検定試験と研修で6万円以上、更新料で毎年12,000円が必要とか。そんな試験は、本当のダンサーは受けません。ロックンローラーに、「月掛け貯金を2年間したら、ロックンローラーとして認めてあげるよ」といっているような、矛盾です。既成概念に異を唱えるからこそ、ストリート系になるというのに。こうやって、せっかくの人材を無為の人材へと追い込んでしまう。
スーパーで働くお兄ちゃんが場合によってストリートダンサーになって学校で教える、ということが認められてこそ、子どもは社会を学び、若者は充実感を得ることができるのです。よいダンサーかどうかは観客が決めることです。
時代が求めているのは体制の変革です。個別政策の訴えより、体制変革を強く訴える政治家がほしいなあと思います。自由な参入、撤退ができるよう、すべての面で役所の介入、規制を弱めることが、産業革命にあった政治だと思います。
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金曜日の夕方、論文の草稿を一応終えました。
まだ完成とはいえないので、万歳はしませんでしたが、プチ祝いにプールへ行き、クロールで600メートル泳いできました。
実に二十数年ぶりで、泳ぎを忘れているのではないかと思いましたが、ザブ~んと入ると、ひとりでに体が動きました。途中休みながらゆっくり泳ぎ、1時間が過ぎたので終わりにしましたが、もっと泳ぎたい気分でした。
論文の訂正箇所はあれこれ思い浮かびます。あの部分が長すぎかな、とか、こちらは省略しすぎかな、とか、あの表現は暴論といわれないだろうか、とか。
ジャーナリストで書いてきただけに、論文の恐ろしさはひたひたと感じます。講評いただくときに、「ジャーナリストだったから暴論を書くのでは」という色眼鏡で見られる可能性があり、そう思わせないだけの傍証の積み上げが必要です。その積み上げに非常に時間と神経を費やしました。
ソマリアの関連で、著名な大学の先生が基本的な事実の把握ができていない原稿を雑誌に掲載して、それをほかの方が引用する、という恐ろしい循環が生まれた事例も知っています。たとえ雑誌の原稿でも、大学の研究者になると「知りませんでした」は通用しなくなります。
論文を書く工程は、そうですね、例えて言うと、相撲の土俵固めみたいなものかもしれません。
私は自分で土俵を固めたことはないので、あくまで想像ですが、土を盛って、上から重みをかけて踏み、場所を少し移動してまた踏み、また踏み、また土を盛り、踏み、を繰り返す。
あるいは、漆塗りかもしれません。何度も塗って塗って、ぽってりした厚みと触感を出す。
机に向かっている間は、胆のあたりに、ずしんずしんという重みが加わるような苦しみが常に加わっており、本当に体が痛くなるのです。この痛みに耐える能力、即ち、胆力なのだと実感します。
ともあれ、少し寝かせて週明けからまた取り組みます。
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こんにちは、吉田鈴香です。
衝撃的な国会での口述を聞きました。
3月22日、村田光平大使の発言
「福島第一原発4号機には1535本の燃料棒がある。これが爆発すれば日本の破滅のはじまりになる。隣には1~6号機共有の燃料棒のプールがある。6375本の燃料棒がある。予定では年末から処理に取り掛かるというが、待てない。危機的状況である。米軍も米兵の安全のため調査に乗り出し始めた」「地球倫理の確立の問題だ」「日本は原子力独裁の国だ」等など
http://www.youtube.com/watch?v=9bq81boQL_Y
質疑
http://www.youtube.com/watch?v=ql46I9PjMfo
遅まきながら、昨年ごろからようやく「愛」とは何か、わかってきたような気がしてきました。
愛とは、「好き」のすごい版ではありません。何かをしてあげたいと、ひたすらに思い、言葉を聞いてあげたいと思い、相手の意をかなえるために自分にできることは何かを考える、その気持ちのことを言うのかなあ、と。
20代のころ、会社の同僚が教会で結婚式を挙げたとき、神父様のお話を聞きました(牧師様だったかしら?)。そのとき、こうお話になられました。
「愛とは、好きだ嫌いではありません」
その言葉を聞いただけで、ええ?と私は驚き、その後の言葉を聞きそびれてしまいました。愚かなことです。
以後、もう四半世紀以上たちましたが、「では、愛とは何ぞや」を考え続けてきました。
連れ合いの悪口を常に言い続ける男性女性をみては、「これは愛ではないな」と思い、
「俺とお前の仲だから、はっきり言ってやる!」と怒鳴っては腹の中をぶちまける日本男児も、「こりゃ、ただのストレスハッサン(アラブ人の名前のよう)だな」と逆に哀れに思い、
女性の容貌だけに着目して遠い目をするハゲタさんをみては、「自分にないものをほしがっているだけで、与えることを考えていないな」と思い、
そんなこんなでえらく長い歳月を費やしてしまいました。
なぜ勉強するかの問を12歳で思い立って36歳で発見するまで24年かかり、愛とは何かを自分の中で一応の結論が出るまで26年かかりました。私の不器用な生き方そのものです。
恥を忍んでいいますが、結論がでてからは、してあげたいと思う気持ちのままに行動し、雑音は耳に入らず、実に心穏やかに過ごしています。
何より、自分が欲するものを自分に最大限与えようと、胆力をいっそうアップして決意を固めることができました。
私が欲するもの、それは勿論、論文執筆です。
ゴールが見えてからすでに2ヶ月はたっているのですが、まいにち尺取虫以下の歩みです。まどろっこしいこと、このうえありません。でも、やります。それが、私の、私への愛ですから。
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今世紀NSAの特徴は下記3点:
移動性mobility
接続性connectivity
複製性replicability
3点同時進行によって暴力活動を行った場合、連続性が増すことと予測不可能であるため、
攻撃側コスト<受手側コスト
元来ゲリラ戦においては攻撃側コストは低く、被弾側コストは膨大(Counterinsurgency Warfare米軍1964)
作戦失敗のコストほとんどゼロ
暴力の成果とは世間を騒がすこと(負傷死亡者数ではない)+略奪品
暴力を振るうNSAが政府側に与えるコスト=抑止対策+政権弱体化
よって、脆弱国政府が負うコストは甚大
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